自分の頭で考えなければ、勉強は楽しくない。
パズルを解く習慣がつくと、モノを粘り強く考えることができるようになる。
ただ、子どもだと、ある程度の年齢で、「こうすれば簡単に解ける」、といった、「知恵」を身に着けてしまうと、長い時間考えることが面倒になってしまう。
小学校に入る前や、入りたての場合は粘り強く考えることは自然にできる。というか、自分の頭で考えることしか、答えを出すやり方を知らないのだ。なぜならそれまでは、とても簡単なことを扱っていたので、「こうすれば簡単に解ける」という「知恵」を身につける必要性がなかったからである。親などに頼らずとも、自分の力で考え、知識を身に着けたり、問題を解いたりすることができたのである。
しかし、主に、親によって、「知恵」を施されてしまうと、人間はそれまで粘り強く考えることしかできなかったのが、教えてもらってできるようになる。「簡単な方法を教えてもらえば、楽に解くことができる」というふうに思うようになるので、あえて粘り強く考えることを面倒くさがるようになるのである。
こうなってしまった生徒を何人も見てきた。非常に残念である。ただ、大人からみて、簡単な問題を子どもがてこずっていたりするのをみると、人間教えたくなってしまうのが世の常である。「ほらっ、こうすればいいのよ!」である。もしかしたら、子どもはもっと考えたかったかもしれないのに、親の余計な行動によって、子どもは考える機会を失うばかりでなく、その先も自分の頭で考えればさらに思考力が高まっていたかもしれないところの芽を摘んでしまったのである。
こうなると、場所を選んで強制して考える時間を作ったり、「できない。わからない。」そういう時間を意図的に作るようにしなければ、モノを粘り強く考える習慣を取り戻すことはできない。
いつも授業で、「自分の頭で考えることを習慣化させないと、かしこくならない。」そういってきた。でも、そんなこといわれても変にかしこくなった子どもは楽な方法を取ってしまいがちだ。
かしこくならない、というのも何か抽象的で、つかみどころがない。子どもの心をグリップするものではないような気がする。
僕は、勉強でも仕事でも、楽しんだ人間が勝ちだと思っている。それは、楽しいことをやるのが幸せ、というのもあるし、主体的に何でも取り組んだほうが充実する、ということでもある。
だから、「自分の頭で考えることを習慣化させないと、勉強は楽しくないよ。」そう言っていきたい。勉強は本来楽しいものだ。それを伝えるのが僕の仕事だ。