うちでやってる自立学習とは
「自立学習」というと、なんか生徒を放っておく、みたいなイメージがあるかもしれないですが、そうではありません。
基本的にうちの塾では、生徒が、自分で各単元の導入解説を読んで、自分で理解して、その上で問題を解いて理解度をチェックし、わからない部分はまた解説を読み、 類題を解いて知識を定着できるような流れを持つ教材を採用しています。うちでは上記のような流れの学習を「自立学習」と呼んでいます。
もちろん、解説を読んでも理解できない場合は、解説しますし、問題がどうしてもわからない場合も解説を加えます。
基本的に自立学習といっても完全に自立している生徒以外は指示出しをします。
これは、生徒の自立度合いによって指示の仕方を変えます。
まだあまり自立学習の姿勢ができていない生徒には、「このプリント(ページ)のこの部分を読み返してみて」とか言いますし、ある程度理解力をある生徒には、「このプリント(ページ)読んで来て」(どこを読むべきかは生徒に判断してもらう)と言います。
また、生徒が順調に問題を解けているかどうか、解説をダラダラ読んでいないかどうかは、頻繁に机間巡視をして確認しています。
このようにして、徐々に生徒が自分の力で自学自習できるように促していくのがうちでやっている自立学習であり、生徒を放っておくのではない、というのが理解いただけたかと思います。
集中空間の設計のために、生徒と信頼関係を構築する
教室の雰囲気というのは、中で勉強している生徒にとっても、外から入ってくる生徒にとっても重要だ。
生徒にとっては、引き締まった空気というのは、塾で勉強して何かを達成したいと考えている生徒にとって理想である。
しかし、必ずしも真剣に勉強したくて塾に来ている生徒ばかりではないことも事実で、そのような生徒が騒ぎ出すと、教室がうるさくなって真剣に勉強したくて来ている生徒にとっては非常に邪魔である。
もちろん、僕は真剣に勉強したくて来ている生徒を最大限応援したいので、引き締まった空気づくりをできる範囲ではあるが努力しているつもりだ。
うちの塾は自立型なので、生徒一人ひとりのやる気が教室の空気を作っている。
なので、生徒一人ひとりとのコミュニケーション、信頼関係を構築することが集中空間づくりへの大事な布石である。
信頼関係を構築しながら、生徒に合わせてモチベーションを上げる言葉をかけていく。
生徒が言うことを聞いてくれるかどうかは、どれだけ生徒と勉強に向かわせるためのコミュニケーションを取れたかどうかである。
雑談などは信頼関係を構築する上では、一切必要ないと思っている。僕自身が生徒と雑談したくない、と言うのもあるが。
また、生徒とある程度距離を取って接しなければ、舐められる原因になる。特に生徒の年齢が高くなってくればくるほど、距離感というのは、細心の注意を払っていくべきものだと感じる。
無理に生徒と仲良くする必要はない。それどころか、仲良くしようとすると、先ほど述べたように舐められる原因となる。
また、家庭環境なども生徒との接し方に重要な参考となる場合がある。例えば、親に甘く育てられた子供は、強く叱ったりしても、反発されて言うことを聞いてくれない。そういう生徒には、基本的にニコニコして接する、あまり厳しいことを言わず、できたことはどんどん褒めていく。褒めればノってくる。もちろん、やってほしくないことがあれば、叱ることも必要である。
叱るとはどういうことか。基本的には、こちらが生徒に「こうしてほしい」と理由もつけて説明することだと思っている。理由は生徒のメリットとなることを添える。度が過ぎたことがあれば、感情的に起こることも効果がある。あまり多用すべきではないが。
アレコレと述べてみたが、真摯さと生徒への敬意があればできることだ。生徒を子供扱いせず、一人の人間として見るといることである。
そのようなことに注意しながら生徒と接していくと、自分の味方となってくれる生徒が増え、教室全体の雰囲気が変わってくる。
2年目から新しく勤務しだした校舎では、ようやく生徒との信頼関係が構築されつつある。
授業でも引き締まって運営することができるようになってきた、はずだ。。。
だが、僕に変わったからかはわからないが、最近になり休みがちな生徒がいる。今度きちんと面談してコミュニケーションを取っていこうと思う。
まだまだ、生徒への目が完全に行き届いていない。その辺りは、まだまだ経験を積んでいかねばならないと感じている。
難しい問題から逃げる生徒をどのように変えていくのか
こんにちはaruyobi講師です。
今日は、土曜日。僕の勤める塾にとっては一番生徒が集まる日、ある意味、小さな「祭り」のようなものです。朝早くて、夜も遅くなって大変だけど、授業をたくさんできるのはとても充実感があります。
さて今日のテーマは難しい問題を避ける生徒、逃げる生徒についてです。
僕の塾は自立学習型なので、生徒のやる気、モチベーションが授業の質を作っていくのです。
僕は能力開発教科を担当しているので、イメージする能力や仮説思考力はもちろん、学習姿勢や習慣を変えていくことが、生徒を教育していく上でのテーマだと思っています。
ツイッターで日々個人塾の先生方の発信を見ていても、生徒の成績を上げることよりも、生徒の学習習慣を変えていくこと、それによって、最終的には「塾の必要ない」十分な学習能力を持った人間に成長してもらう、そういうことに力を入れられているな、と感じる日々です。
能力開発教材は、最初は比較的簡単なものから始まりますが、進むごとに徐々に問題のレベルが上がっていきます。
ここで、本人にとって難しいと感じる問題に少しでも直面したときに、自分の頭で考え抜いて、解決できるか、
それとも身近な人(親や先生など)に聞いてしまって、自分の頭で考え抜くことを怠ってきた生徒では、伸びに差が出てきます。
しかし、自分の頭で考え抜くことができず、教えてもらって当然、という姿勢の生徒を、自分の頭で考えぬくことのできる生徒にするのは容易なことではありません。
能力開発教材は基本的に質問禁止です(したとしても、問題の意味がわからないときのみ)。僕は先輩の塾経営者の授業を勉強させていただいて、自分の授業でも容易に質問をできないような環境を作っているので、自分の頭で考えられない生徒はレベルが上がるとそのうち行き詰って何もできなくなります。
周りの生徒が、自分の頭で考えて、集中してがんばっている中で、質問をしに行くことしかできない生徒はなにもできない、という状態が続きますが、そういう環境に1年2年置くことによって、初めて習慣が変わっていくことが考えられます。これも、先輩塾長から教わったことです。
まだ、明確な改善は起きていない、少なくとも僕が気づくレベルまでには達していないというのが現状ですが、このまま全力の自立学習指導を続けて、僕の授業を受ける生徒たちがさらに学習能力に磨きを掛けて、受験に合格したり、勉強を楽しむことができるようになったりしてほしいと思います。いや、難しい問題に好んで立ち向かう、そんな生徒にさえなってくれれば、僕の指導はうまくいったといえるでしょう。そんな生徒たちを見る日をいつか夢見て、授業をがんばって行きたいと思います。
うちの塾は課題が山積
僕は主に小学生そして特に算数を教えている、ただし中学受験指導をしているというわけでは必ずしもない。会社的に中学受験生を多く集められない状態に今はあるので、その前段階までの指導が多く、本格的な中受指導というのは行っていない。
とはいえ、どこかで聞いた言説でもあるし、うちの代表も言っていることでもあるのだが、塾をやる以上、受験というものとは切っても切り離せない。受験をやってこそ、結果を出してこその塾ではないか。我々は補習塾ではなく、進学塾を名乗っているのだから。
ということもあるし、生徒が3年の終わりとかに、本格的に受験勉強を開始するために、「辞めて他の塾に移ります」とか「コマ数を減らします」とか言われると悲しいものがある。
確かに、お客様に本格的な受験塾として認められていない我々の責任だが、僕はこの状況を変えたいのである。相手にするのは、昔から有名な大手進学塾その他なので、確かにそこの塾の指導力はお墨付きである。それでも、お客様にはうちの塾を選んでいただきたい。
そのために、足りないものを今、勉強しているし、中受までのカリキュラムを実際に作成したりしている途中である。最近は「中学への算数」を毎月解くことを習慣化しているし、とにかく教育情報をTwitterなどで日々入手している。
そして、算数は割と全体を見渡せるようになったが、国語がまだである。国語を伸ばすというのは、自分の中ではまだ理論が固まっておらず、どういう方向性で授業をしたら良いのかまだまだわからない。最近は、難関校の過去問を解いたり、出口汪先生の「論理エンジン」を解いたり、教育書を読んだりして情報収集中である。
ただ、やはり自分の力だけではうちの塾をどうこう、という状態まで持っていけないことも確かである。ほかの算数担当講師にも勉強をしてもらわなければならないし、それを授業で活かしてもらわなければならない。
とにもかくにも、うちの塾が、小中部と高校部全部をやっているので、力が分散してしまいがちなのである。だから、ノウハウの共有とかミクロ的なものも大事だし、うちの塾がどういう方針で教育をしていくのか今一度社員全員でコンセンサスを取っていくとか、マクロ的なことも大事だ。どちらも重要でやっていかなければならないと感じている。
会議などではいつもいつも集客をどうするか、とか、営業面のことばかりが話題にされるのだが、中の環境整備をもっときちんと機能させる、たとえば、社員全員が清掃の大切さについて理解して、それぞれ毎日清掃をきちんと実行していくところから基盤を整備していったほうがよい。上で述べた塾の教育方針についてコンセンサスを取るということも大事だし、一人の営業のエースに頼るのではなく、誰でもそこそこ結果を出せるような仕組みづくりもしていかなければならない。目先の集客も大事だが、全体の会議ならもっと土台になるようなことをしっかり議論してそこから教務でも営業でも方針が決めやすいようにするべきではないか。
課題は山積だが、なんとかしたいと思っている。まず、全体会議の議題からマネージャーに提案していきたい。
頭の中でイメージする力は理解力の土台である。
立体図形が得意な生徒は学力が高い。
物事を頭の中でイメージすることができれば、人間は理解することができるものである。
理解力には知識も大事だが、頭の中でイメージできることが理解力の本当の土台なのである。
立体図形の得意な生徒は、モノをイメージする力が高いので、学力も高いといえるのである。だから、モノをイメージする訓練として、立体図形からイメージする訓練をつませていく。イメージする力というのは、年齢によっても変わってくるが、やはり訓練次第で小さな子どもでも鍛えることができるのである。
イメージする訓練には段階がある。立体図形をイメージするには、平面図形からイメージできるように訓練していかなければならない。簡単なものから、だんだん抽象的なものへ、そして複雑なものへ。
また、最初は動かさなかったものを、平行移動させたり、回転させたり、折り返してみたり、そのようにして、徐々に平面の感覚を鍛えていく。平面感覚がある程度鍛えられれば、とうとう立体図形の問題の出番である。
そのようにして、イメージする力を高めていくと、文章の内容をイメージする訓練に入っていく、コレは国語力に直結するモノである。文章が理解できるということは、文章を頭の中にイメージできるということである。イメージする力を鍛えるということは、算数だけでなく、国語、どんなものを理解することにおいて重要なことなのである。だって、人間は言葉でしか、感情を持ったり、考えることができない動物なのだから。
国語においては、指示語、接続語が重要な役割を果たしている。文章を理解することにおいて、最初はこれらに注目して読むことが大事だ。よく言われているように、指示語、接続語にはしるしをつけて、注意して読ませていく、それがセオリーであろう。そうして、全文をきちんと理解すること、イメージできるようにすること、それを段階を上げ、難しくしていくと伸びていくものなのであろう。文章が難しくなると、出てくる単語も難しくなってくる。いつもどおり意味調べをさせるのは当然だが、テーマ別に語彙の授業をやるということも必要になってくるだろう。
どちらにせよ、国語に関しても楽しんでやってほしい。勉強はゲームのように楽しんで。それを国語でも、生徒が実践できるように僕は指導をがんばって行きたい。
俺は国語についてはまだまだ知識が足りない。もっと詳しくなりたい。算数と国語が教えられれば、おそらく、基本的なことは教育としてオーケーであろう。国語、勉強あるのみである。
自分の頭で考えなければ、勉強は楽しくない。
パズルを解く習慣がつくと、モノを粘り強く考えることができるようになる。
ただ、子どもだと、ある程度の年齢で、「こうすれば簡単に解ける」、といった、「知恵」を身に着けてしまうと、長い時間考えることが面倒になってしまう。
小学校に入る前や、入りたての場合は粘り強く考えることは自然にできる。というか、自分の頭で考えることしか、答えを出すやり方を知らないのだ。なぜならそれまでは、とても簡単なことを扱っていたので、「こうすれば簡単に解ける」という「知恵」を身につける必要性がなかったからである。親などに頼らずとも、自分の力で考え、知識を身に着けたり、問題を解いたりすることができたのである。
しかし、主に、親によって、「知恵」を施されてしまうと、人間はそれまで粘り強く考えることしかできなかったのが、教えてもらってできるようになる。「簡単な方法を教えてもらえば、楽に解くことができる」というふうに思うようになるので、あえて粘り強く考えることを面倒くさがるようになるのである。
こうなってしまった生徒を何人も見てきた。非常に残念である。ただ、大人からみて、簡単な問題を子どもがてこずっていたりするのをみると、人間教えたくなってしまうのが世の常である。「ほらっ、こうすればいいのよ!」である。もしかしたら、子どもはもっと考えたかったかもしれないのに、親の余計な行動によって、子どもは考える機会を失うばかりでなく、その先も自分の頭で考えればさらに思考力が高まっていたかもしれないところの芽を摘んでしまったのである。
こうなると、場所を選んで強制して考える時間を作ったり、「できない。わからない。」そういう時間を意図的に作るようにしなければ、モノを粘り強く考える習慣を取り戻すことはできない。
いつも授業で、「自分の頭で考えることを習慣化させないと、かしこくならない。」そういってきた。でも、そんなこといわれても変にかしこくなった子どもは楽な方法を取ってしまいがちだ。
かしこくならない、というのも何か抽象的で、つかみどころがない。子どもの心をグリップするものではないような気がする。
僕は、勉強でも仕事でも、楽しんだ人間が勝ちだと思っている。それは、楽しいことをやるのが幸せ、というのもあるし、主体的に何でも取り組んだほうが充実する、ということでもある。
だから、「自分の頭で考えることを習慣化させないと、勉強は楽しくないよ。」そう言っていきたい。勉強は本来楽しいものだ。それを伝えるのが僕の仕事だ。
校舎掃除プロジェクト
塾に置いて、教育機関において、学習環境の整備は校舎の営業活動の基本である。基本中の基本なのだ。良い授業をするのも当然、学習環境の整備も当然なのだ。
その上でスタッフそれぞれが自分の付加価値を磨いていかなければならない。
僕は今、2校舎に勤務している。週の半分ずつくらいわけて2つの校舎に行っている、というわけだ。
さて、そのうちのひとつはあまり掃除が行き届いていない校舎だ。
僕は最初にその校舎に行った日に、トイレに入ったとたん、「きったな!」という声をあげてしまったくらいである。幸い、いやなにおいはしていなかったが、掃除を長期間していないことがわかる状態であった。
トイレの清潔さはにおい、そして、トイレットペーパーのカスが落ちていないかとか、尿が飛び散っていないかとか、そんなところであるが、こういうものをクリアしていないと、トイレの印象は、汚い、ということになる。
さて、校舎掃除プロジェクトの始動である。とはいえ、最初の汚い状態からましな状態にするのは、僕一人でも可能だが、それからは、毎日メンテナンスを校舎スタッフにやってもらわねばならない。僕が校舎には週の半分もいけないので、僕が居ない間は他のスタッフでやってもらうことになる。
そのためには校舎を清潔にしておくことの大切さを改めて共有しておくことも必要だし、誰がどこの掃除をするのか、掃除をするならどのように掃除をするのか、手順は?というようにいろいろと決め事をしていかなければならない。そして、それが実行されているかのチェックも定期的にしていかなければならない。大変だが、これがマネジメントというものだろう。
こういう会社員の立場で、まだ教室長でもない身であるが、自分が率先して動くことによってマネジメント経験をつむことは可能であると思うのだ。周囲を巻き込んでいく力というのは、今の自分に足りない能力だが、校舎の生徒数を増やすとか、そういう目標を達成するためには自分ひとりだけでは非力である。それに、校舎というのは僕一人で運営しているわけではなくて、教室長やほかのスタッフがそれぞれの思いを抱いて運営されている。だから、まずは話し合いから初めて認識を共有し、コンセンサスを取っていくことからはじめていく。
校舎のスタッフはチームなのだ、チーム一丸となって校舎のために、生徒のため教育のために動くようになれば百人力である。良い校舎を作るために、周囲の協力を得ることから、はじめていきたい。